ホルベイン アーチスト ナビ
 
バナー:ホルベイン ヴェルネ
バナー:ホルベイン 透明水彩絵具バナー:ホルベイン エアロフラッシュバナー:ホルベイン ドローイングインク

 
  トップカフェオランジュ > 音楽
 
 

 

第7変奏

『オーディオ評論家、レコード批評家
 五味康祐』

1

 前回に「ベートーヴェンにきく」の梁瀬先生のことを書き、前々回に「ある晴れた日に」の古畑さんのことを書いたあと、私自身のレコード(CD)の聴き方、買い方を根本から改めねばと考えるようになった。

 私はこれまでというもの、レコード(CDも)を、娯楽のひとつとして、あるいはBGMとして、聴いてきた。いつもがそうだというわけではないが、姿勢としてはそうだ。ときには、オーディオの音として聴いてもいる。
 CDが海外のアウトレット店からだけでなく、国内の小売店でも格安なのが出まわるようになってからは、安く買えるというそのことだけで、やみくもに買いあさっている。現在ではたまる一方で、一回聴いてそれっきりというのがつねだ。

 ならば、コレクションをしているのかといえば、否である。コレクションというからには、徹底的に集めるということが本旨でなくてはならない。

 特定の演奏家、当今なら、ムラヴィンスキーなりリヒテルなり、あるいはスヴェトラーノフなりの音源の出現ぶりを見てみよ。手品のように出てくる。それらを、なにひとつ買いもらしたり見送ったりしてはならないのである。たとえ、すでに持っているのと同じ音源であったとしても、レーベルが移り、あるいは同じレーベルでも異なる番号で再発売されれば、それも重複とみなしてはいけない。これがコレクターであり、マニアなのである。

 さらに高じれば、商品化された音源だけでなく、放送のエアチェックは当然のこと、客席での盗み録りまでも、たとえプレミアムがついても手に入れることをいとわなくなるのである。

 演奏家のほかにも「第九」のコレクション、特定の作曲家のコレクション、LP盤なら初期盤とされるもののコレクションなど、いろんな集め方がある。

 かくいう私は、世間一般から見ればひとかどのコレクターに見えるだろう。私自身もそう自認するものの、徹底して蒐集しているものはひとつもない。私の場合、好きな演奏家といっても、この曲は好きでない、同じ曲を何枚もいらない、この演奏は録音が古すぎて音が悪そう、これは高すぎる(これが多い)というような理屈で控えるのが多く、どれもこれも中途半端である。レコード雑誌やウェブなどで、人様の徹底したコレクションぶりを知らされるにつけ歯がみして悔しがっている。

 それが、梁瀬先生と古畑さんのことを拙い文章にまとめあげたことで、心境に変化が起きたのである。

 五味康祐の本に、レコードは持っている数の多さを自慢するのではない。どれだけにしぼって持っているか、なにを残しているかに意味があるのだ、というようなことが書いてあったと、はるか昔に読んだ断片を思い出した。正確な文章を読みなおしたいという思いがつのってきた。
 家中探しまわって、やっと見つけたのは、『五味康祐オーディオ遍歴』(1982年、新潮文庫)と『いい音いい音楽』(1980年、読売新聞社)の2冊だった。『西方の音』だと思いこんでいたが、ちがったようだ。

 くだんの箇所は『五味康祐オーディオ遍歴』の「名盤のコレクション」の項にあったが、私が思いこんでいたような表現ではなかった。

 五味康祐は(現存の人と、多少ともご縁を得た故人には敬称をつけるという基準で書いている)、この文では、百枚も持っているなら多いほうだとしているような記述だが、その百枚を、ひとつの曲につき一枚(便宜上、二枚以上にまたがるものでも一点を一枚としておく)ずつ、合計百枚を選ぶのは容易ではないとしている。ベストレコードといっても、個人的な思い出とか、再生装置の音色など、選択の条件がいろいろにあってむつかしいというわけだ。すこし引用しよう。

 「何を――誰の演奏で――残すかは、何を捨てるかに他ならないわけだが、こう玉石混淆でレコードの数が多くなると、コレクションに何枚所蔵しているかより、何枚しか持っていないかを糺した方が、その人の音楽的教養・趣味性の高さを証すよすがとならないか。
 つまり碌でもないレコードを何百枚も持つ手合いは、余程の暇人かアホウということになる。」

 「こうして、新譜を取り寄せては聴きくらべ、捨てていって、百曲のこれば大したものだろう。(略)かりに一日かならず一枚を聴くとしよう。ほぼ四ヵ月目に再びその盤にめぐり会う勘定で(略)それが二百枚ともなれば、だから半年に一度出会うか出会わぬかで、つまり年に二度しか聴けぬ勘定である。
 (略)五百枚以上持っているのは、平均すれば二年に一度程度しか聴けぬわけで、誰のでもない、自分のレコードでありながら二年目にしか聴けぬような枚数を誇ったところで何になろう。コレクションを自慢する輩は、クラシックたるとジャズ、フォークたるとを問わず、阿呆だというゆえんである。」

 「レコードは、いかに名演名録音だろうと、ケースにほうりこんでおくだけではただの(凡庸な)一枚にかわらない。くり返し聴きこんではじめて、光彩を放つ。たとえわずかであろうと、それがレコード音楽鑑賞の精華というものだろう。」

 「ベートーヴェンにきく」の梁瀬先生といえば、LPを百五十枚か二百枚所蔵しておられただけ、それも八割以上をベートーヴェンが占めていた。その中に、レコードは九枚組のベーム、ウィーンフィルの交響曲全集が三セットもふくまれている。

 梁瀬先生は、つねに畳の上に(洋室は診療室と応接室だけ。オーディオ装置は和室に備えられていた)静坐し瞑想するがごとくに聴き入られた。まさに入魂である。
 ベームの演奏は、おそらく二百回も三百回も、繰り返し聴いてこられたのではなかろうか。三セットも持っておられたのは、磨耗にそなえてであった。レコードの持ちをよくするようにと品質保持剤もコーティングされるくらいだった。

 交響曲以外の曲、ピアノソナタでも、あるいはその他のジャンルでも、同様に何度も何度も反芻するように聴かれた。それも精神を極度に集中して。
 だからこそ、ベートーヴェンが見た神をベートーヴェンの音楽の中に感得されていたのだと思う。

 意識を集中する彼方に何かがあるだろうということは、やらない者にはわからない。
 私自身、農場の開墾を手伝っていたころ、夕食を馳走になりながらの、一対一の説法に接するうち、ごく自然に、南無阿弥陀仏を唱名するようになっていき、いつのまにか体がほんわかと温かくなってくるのを体験した。

 先生と離れて、以前の俗人に還ってしまってからは、そういう変化を体験できなくなったが、その体験と同様、ベートーヴェンへの没入の仕方において先生に倣うなら、先生がベートーヴェンの音楽に感得された世界をのぞき見ることはできるはずだと信じている。
 これは、ベートーヴェンにかぎらない。

 現実の私は、椅子に頭をあずけ、からだを沈めて、ほぼ仰向けに寝ころぶような格好で聴く。そんな姿勢だから、いつのまにかまどろんでしまうことがしばしばである。音楽は、だから聴いているのではなく、聞こえているだけなのである。

 「ある晴れた日に」の古畑さんとは、その他大勢の読者の一人として接しさせていただいただけだが、一度だけお宅へお伺いしたことがある。そのときの印象では、八畳を二つ合わせたくらいの部屋に所せましと所蔵されたLPは数千枚か、あるいは万か。その後CDも加わっていたはずである。

 だが、数が問題なのではない。それだけのレコードを、古畑さんは集められたのではなく、結果として集まったということが大事なポイントなのだ。
 なぜ、集めたのでなく集まったのか。それは、古畑さんの聴き方そのものがそうさせたのである。
 古畑さんの聴き方は、五味康祐のいう「この一枚」という聴き方とは範疇がちがう。しかし、レコードで音楽を聴く鑑を私はそこに見る。

 古畑さんは私たちの立場からいえば、読者のためのまるで「試聴装置」のような存在であった。究極のガイドであった。もちろん古畑さん自身は、純粋に音楽が好きで、いい音楽、いい演奏を求めてのレコード探索をつづけられたわけであるが、私たちの思わぬところから思わぬ作品、思わぬ作曲家を見つけてこられ、私たちの知的好奇心をいたく刺激された。

 そのさまを、いもづるをたぐり寄せるのとは反対、張っている根の行き先を、つぎつぎにたどっていくようなものとたとえたらよいだろうか。そのようにして古畑さんのレコードはふえてしまったのだろう。(それも、評価できないものは適宜中古店に処分したり、ほしいという人に払い下げたりしての話である。私も何枚か譲っていただいた。)

 以上でおわかりいただいたごとく、古畑さんのレコードの買い方は、「第九」を集める、クナッパーツブッシュを揃える、などとはまったく無縁だったわけである。レコードの数の多さは、好奇心の旺盛さ、関心の対象の広さがもたらしたものにすぎないということなのである。

 古畑さんが挙げておられる曲目をみると、私などレコードを二千五百枚、CDを一万枚も集めていて、なお、ないないづくしであると思い知らされる。数だけはあるが中身が片寄っている、あるいは関心の対象とする範囲がせまいのである。なにもベートーヴェンの交響曲全集を三十セットも四十セットも持つ必要がないわけだ。五味康祐が嗤うように、まさに阿呆そのものである。

 レコード(CD)は集めるものでなく聴くものだ。

 最後に、五味康祐の『よい音 よい音楽』から、 聴き方の教訓となる箇所を引いておこう。

 「音楽は(略)、民族と国語を異にする人たちにも感情伝達可能な(翻訳の必要のない)人類に共通のことばである。単に感情にとどまらず、それは思想、自然観照、宗教的崇厳感、哲理さえ聴く者に感じとらせる。この意味ではベートーヴェンもいうように、音楽こそはいかなる哲学書よりも高遠な啓示に富む書物であり、あらゆる人が音楽を通じて、神性に近づくことができる。」(同書「音痴のためのレコード鑑賞法」)

 「(略)真の批評眼をそなえた人は、宗教的に、たいへん謙虚な人格なのを、私は知った。ずいぶんたくさんな音楽作品を私は聴いている。(略)その私が、宗教をもたぬ作品はどんなにつまらないものかを、知った。偉大なものは、つねに宗教性に裏打ちされていることを、大バッハを例に出すまでもあるまいが、私は知ったのである。私の得た、これは最も大きな教えである。」(同書「音楽の教え」)
  筆者注:バッハでなくベートーヴェンに神性をみておられたのが梁瀬先生である。

 
(2005/11/5 update)
   
 
         
 
つながらないページや移動したページを見つけられましたらこちらまでお知らせ下さい。

Copyright (C) 2005 holbein works,ltd. Japan All Rights Reserved.